千葉南高校における勾玉
南高の校章が古墳から出土した矢尻と勾玉であることは多くの南高出身者が覚えていると思う。
「大和島根の 黎明に埋もれしままの 玉と矢を掘りてわれらが 校章とし」という歌詞は校歌の1番で、高校建設に伴って古墳が調査されたことは南高のアイデンティティのひとつになっていることがわかる。
しかし、その遺物が実際どんな形をしているのか見たことある人はいないのではないだろうか。
発掘調査報告書
日本の遺跡発掘は、ほとんどの場合「発掘調査報告書」という形でまとまっている。
今回は、たまたま南高と同じ住所の遺跡を調査した報告書を発見することができた。遺跡地図では見覚えのある道路や立地を確認できたので間違いないだろう。
仁戸名古墳群発掘調査団1972『にとな : 古墳群とその集落址の調査』 以後”にとな遺跡”と呼ぶ。
高校ホームページによると1972年4月14日に開校及び入学式があったらしいので、にとな遺跡を調査したのち校舎を建設したのは南高である。
遺跡および出土遺物
にとな遺跡では、住居址を除くと6基の古墳が存在する。すべて直径10mほどの円墳で、埋葬空間は墳頂の竪穴である。
玉類が出土したのは3号墳と6号墳で、それぞれ臼玉と管玉だった。
勾玉…?
南高校章にあしらわれたのはデザインは勾玉である。しかし勾玉らしいものはないではないか。
不思議に思って南高に質問したところ、誰もそのことを把握している人はいなかった。
質問に答えてくれた人は、「その辺のことは全く伝わってないから、出土した遺物そのものはそこまで重要でもないのかもしれない」「デザインの問題だろうなぁ」とのことだった。
結論
校歌に歌われる「玉」は、校章にあしらわれた勾玉ではない。